映画「佐々木、イン、マイマイン」を観ましたので、覚書用に感想を書きます。ラストも含めて、大いにネタバレを含むのでご注意ください。

「佐々木、イン、マイマイン」という映画


役者志望、しかしうだつのあがらない主人公が、高校時代の友人である「佐々木」を思い返していく青春映画です。

佐々木はとんでもないアホで、たぶん女子からは結構嫌われているんだけど、不思議と不潔感はないというかガチで「生理的に無理なんですけど」とはならない絶妙なラインのまま生きている人。私がクラスメイトだったら、きっと周りの女子に同調して「佐々木ほんとやばいよね〜」という言葉に頷きながらなんだかんだ目で追ってしまうと思う。

中核となるエピソードに「佐々木コールをすると服を脱ぎ出して全裸になる」というものがあり、これは内側の人間(=佐々木の友人、クラスメイト)との関係を強固にする儀式めいたものなのだけど、やればやるほど外側の人間(=佐々木をよく思っていない人間や先生)との溝が深まっていきます。

途中、佐々木の台詞に「お前らが脱がせたんだろ」というものがあって、大変つらかった。佐々木自身はもっと多くの人と対話したかったのだけど、佐々木コールがはじまったら「お前ノリ悪いな〜」と言われないためにも道化のふりをするしかなかったのかなと。節々から見える佐々木のキャラクター像は「絵を描くのが好き」「漫画や小説をたくさん読んでいる」「ゲームが好き」といったどちらかといえば文化的、内向的な人物で、ギャップが悲しくて痛々しかった。

 

「佐々木、イン、マイマイン」の酷評があるならこの部分では

ところで今作、見ているうちに強い不安に苛まされ、結果その不安はピンポイントに現実になりました。つまり「この話の中で、佐々木のお父さんとか、あるいは佐々木とかが、死に見舞われたら嫌だな」ということ。

それは「佐々木はいいキャラクターだから死んじゃったらまじショック〜泣いちゃうんですけど〜」ということではなく、青春、輝かしい時間、かつての友人、みたいなテーマの中に並列して「死」が描かれてしまったら、この作品は過去に観たことのない傑作ではなく、従来のフォーマット通りの青春映画になってしまうと思ったから。

だからこそさまざまな受け取り方がありそうなあのラストは、あらゆる意味でセーフ!なシーンであり、同時に「やっぱ茶番かえ!もうええわ!どうもありがとうございました!」でもある。

「死」の書き方って「日常這い寄り方」と「真正面受け止め方」があるのだけど、例えば尾辻克彦さんの芥川賞受賞作「父が消えた」は前者で、きっと「佐々木、イン、マイマイン」も前者で、「父が消えた」の作中の言葉を使わせていただくのであれば佐々木はずっと、高校時代もパチプロ時代もおそらくそれよりもずっと前から、一人で静かに少しずつ死んでいたキャラクターなのだと思う。

これは好みの問題だけど、少しずつ死に向かうキャラクターに対し、作中で「死ぬ瞬間があること」、また遺された人が「彼の死と向き合うこと」を描くのは蛇足だし野暮だ。佐々木の死がゆーじにとって役者という夢や元カノに向き合うきっかけになっているのも、記号としての「死」あるいは「喪失」という感じがして「かつての友人が死ぬというなかなか起きないドラマが自分からの身に降りかかったのでここぞとばかりに浸ってるモラトリアム坊主ちゃん」感が拭えなかった。この人そのうちライ麦畑で走り出さない?大丈夫?と不安になった。リアリティをめちゃくちゃリアリティに書いてるガチモンリアリティショーとしては超絶ハイスペックなので、薄っぺらさこそが描きたかった本質です!と言われたらハチャメチャ成功してんじゃんすげー!と思う。

 

それはそうとして、好きなとこ

では作品全体がぴったりうすうす0.02mmの無理無理の無理メロピーナッツだったかと言えばそんなことはなく、映像の美しさや徹底したレトロ感は良い意味で印象的でした。例えばキッチンにあるそんなもんどこで買うとんねんという花柄の鍋、佐々木の自宅と真っ暗な中でやるゲーム、ペルシャ館というカラオケ、個人っぽいパチンコ店等。

とりわけ目を引いたのが後半でインサートされる、佐々木が水辺で水切りしているシーン。青っぽい空気の中に佐々木の背中だけが濃く残されていて、あるある、と思った。ある、身近な人の何気ない表情が焼きつくこと、もしくは既に死んだ大切な人を思い出すとき、一番「その人っぽくないシーン」が思い出されること、ある。あるある。

 

「佐々木、イン、マイマイン」ラストシーンの解釈

ここからは私の解釈で、実際には描かれていないし、正解不正解も知ったこっちゃないが、ラストはあくまで妄想で、遺された三人が真に求める佐々木の「最期」なのだと思う。あの佐々木ならそんくらいやってくれんじゃねえかと期待してしまい、三回忌でも五回忌でも「佐々木コールしたら生き返ってくれんじゃねえかと思っちゃったよ」って語られるのが佐々木という男、だけども、そのイメージの中に佐々木の本質はない、その不完全さも込みで佐々木なのだと思います。おそらく、佐々木を本質から理解した人というのは家族も含めて一人もおらず、ゆえに佐々木は早い段階から「誰にもわかってもらえない」と強く思い込み、口では「彼女ほしい」と言いながらも苗村さんを拒絶したのはほかでもない佐々木自身なのでは、悲しいね。

これは佐々木の話にかかわらずすべての人にあまねくふりかかる悲しい呪いなのだけど、いなくなったら困る人なんてただの一人もおらず、すべての命が残酷だけど平等で、誰が死のうと生きようと滞りなく世界が回っていく、その残酷さを真っ向から悲しめるのは若者の特権だ。誰もが経験するその「気づき」は、この映画の外でももうええわありがとうございましたというくらいくりかえされるわけだけど、自分以外の誰かの気づきに触れたくなったとき、こういう映画がちょうどいいのかもしれません。

 

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