2009年12月24日、若くして亡くなった、フジファブリックのボーカル&ギター、志村正彦さん。ふとしたときに、志村さんの日記(ブログ)をまとめた著書「東京、音楽、ロックンロール」を読み返すと、生前の志村さんがいかに心身を削って楽曲制作に打ち込んでいたか分かり背筋が伸びます。
志村さんの真摯さに「アーティストとして生きる人だけでなく、すべての社会人が成果を出すために必要なマインドなのでは?」と感じたので、特に気になった部分をピックアップしました。
いつまでも「バンド名の由来」を聞かれたい
出はじめの頃、フジファブリックはバンド名の由来をよく聞かれていたそうです。確かに、一聴して「あれが元ネタだな」とか「あそこからバンド名をとっているんだな」と想像できるようなシンプルなバンド名ではありません。バンド名はバンドを組んだときに悩みがちなポイントでもあり、いじりやすいポイントでもあるので、例にもれずフジファブリックもいじられていたようですね。
【初心者がかっこいいバンド名に悩んだら有名バンドの由来例を参考にすべし】
しかし、次第にフジファブリックの認知度があがり、インタビューでもバンド名の由来を聞かれなくなったそう。そして、こうしたエピソードをもう新人バンドではなくなってしまったと実感せざるを得ないエピソードとして、寂しそうに語っています。
ビジネスの現場でも「いつまでも新人気分でいるな!」「先輩としての意識をもて!」というように叱る上司もいるでしょうが、志村さんの考えは真逆。あくまでも初心を忘れず、何度でも同じ話=バンド名の由来を目の前の人に伝わるように話したいという真摯さも必要ですね。
「俺たちはフジファブリックだ、インタビューしにくるってことは当然俺たちのこと知ってんだろ?アン?」というハリウッドスターのような驕りあるバンドだったら、きっと愛されていなかったでしょう。
うまくいかないのはインプットがないから
志村さんは2006年10月ごろから曲が作れなくなり、半年ほどスランプに陥ったと語っています。
当時のことを
「曲が書けないミュージシャンほど社会に必要ないものはない」
「営業職として入社したのに『営業しません!』と言っているようなもの」
と例えていることからも、スランプに対する強い葛藤が垣間見えます。
そんな志村さんはこの時期を振り返って、曲が作れない原因として
「インプットがなかった」
ことを挙げています。
趣味があるわけではなく、恋愛も特にしていなかったためにインプットや外的な刺激がない=言いたいことも特にない
↓
作りたい曲がない
↓
でも仕事はしなければいけないから缶詰で曲作りをする
↓
インプットの時間が削られ曲が作れない……
という悪循環に陥っていた様子。
趣味に興じることや遊ぶことというと、一見「自分の欲にしかならない」「仕事につながらない」というような不真面目な行いのように思えますが、実は仕事で成果を出すためには遊ぶ時間も欠かせないのです。
ルーティーンを大切にする
2008年6月、志村さんは丸々一ヶ月休養していました。前述の通り、思うように曲が作れなくなり、また体調も芳しくなかったために「フジファブリックを辞めたい」というところまで追い詰められていたそうです。
主治医に
「いろんなことを考えずに、仕事も休まないと、数年後には死んじゃうよ」
と言われたことから、休養期間が与えられました。残酷なことに、主治医の言葉は近い未来を予言する言葉になってしまうのですが、それでもこの時期に「きちんと休む」という道を選んだことは無駄ではないと思います。
そして志村さんは、休養しながらもボイストレーニングと日記を書くことは続けていたそうです。曲が書けず身体が動かず、ギリギリのところで「バンドをやらない」という大胆な決断をしながら、自分の礎となるルーティーンだけは続ける。
このバランスが、きちんと休んでいても復帰後にブランクを感じさせない強さを生み出していたのかもしれません。
こんなに真摯に仕事と向き合っていた志村さんはもう曲を書けない、一方つらいことも苦しいことも特にない自分には時間がある、本当に報われません。いつ死んだとしても「ああやって生きていたから、無理をしすぎたのかもしれないね」と周りに思われるような生き方がしたいものです。
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