新装版「池袋母子餓死日記 覚え書き(全文)」を読んで気になる病気や金銭、文句のこと

2017年12月20日発行の新装版「池袋母子餓死日記 覚え書き(全文)」を読みました。先日書いた山田花子の自殺直前日記の話ではないけれど、ざっと目を通すだけで生前の生きづらさが伝わってくる一冊なのですが、読んでいると疑問を感じるところがちょこちょこと出てきます。

故人のプライベートと密接に関わる部分のため、詮索するのもいかがかと思ったのですが公人の友社編集部の「刊行にあたって」というページに

二一世紀の高齢社会に突入寸前の私たちみんなが、「自分たちのための福祉」について考える上で、これ程貴重な記録はないのではないでしょうか。
小難しい理屈やエゴイスティックで興味本位な議論を何百回繰り返すより、この貴重な記録が私たちにいったい何を訴えているのかを時間をかけ、みんなで静かに考えてみたい。

とあったので、疑問に感じた部分を含めてよく考えてみたいと思います。

 

母子について

遺体が発見された1996年、母は77歳。息子は41歳。日記を読む限り、息子はなにか持病を抱えているらしく寝たきりに近い状態で、年老いた母が介護している様子。

ご主人は、1992年3月24日に他界しています。

P210、1996年1月10日の日記によれば

「私は、入院しながらのこの家に、転宅して来たが、ここに来たのと、同時に、三人共、病気、病気でお掃除どころではなく、毎日病院通いを、主人と私はするし、子供は来た日から、寝込んで、動けないし、その後は、主人が、六年間寝たぎりになられた後、亡くなられるし、私は、二人の看病と、自分の病気を、無理してきた(後略)」(引用部は原文ママ)

ということ。

さらにP220 1996年1月29日の覚え書きによれば、池袋のアパートに引っ越してきたのは1985年4月。

その後、母子は互いの病気と向き合いながらも、懸命に暮らしています。

母子の病気について

息子は、15年以上病人生活をしているとのこと。「子供のパンス(パンツ)変えた」「ヒゲ切りした」と定期的に書かれていることから、身の回りのことも十分には行えないよう。

病名は不明ですが、下痢や血便も繰り返しているらしく、母は何度か「わかもと」を買いに行っています。

また、こちらも病名などは詳しく明記されていませんが、文中を見る限り母も熱、頭痛、吐き気、腰痛、耳なりなどが慢性化していたようです。

どちらもかなり重くつらいようですが「今更、病院に行く金もないし」と記載されていることから、治療する意思はあまりなかったように見えます。

さらに、P14 1993年1月19日。

「もう、七、八年以上、私しはゆびのひようそうで、自分では洗えないので散発店に、一年に、一度か、二回くらい行ったとき丈洗ってもらって後は洗えなくて、ほっているが、散発店ではシャンプーを洗い流してくれないのでかゆみやかさが出来て困ったのでやめた」

この内容から、母がひょう疽をわずらっていたことが分かります。そして他のページの記述からも、ひょう疽はそうとう悪化していて、手を洗う、料理をするという日常に欠かせない動作もできなくなっていたよう。

そしてさらに読み進めていくと、どうやら母子にとってお風呂に入らない、髪を洗わない、料理をしない、さらに病気の治療をしないことさえ、節約だと感じていたように見えます。

 

母子の金銭感覚について

収入は2ヶ月に一度振り込まれる年金8万5650円のみ。ちなみに、月の家賃は8万5000円。

亡くなる直前まで、家賃はもちろん、電気代、ガス代、水道代、さらには新聞代も毎月きっちりと払っていることを書き記しています。

恐らく、滞納もできない真面目な人柄で、それゆえ人に頼れず餓死にいたったのではないでしょうか。

P11、1993年1月3日の覚え書きには

「お金は、子供や、私しの具合が、さっぱりと、無い現状で、何か仕事と思っても、体が、出来無いし、誰一人、相談する人も無いので、ただつかれるばかり。昔の様に、私しが、仕事が、出来るとよいけれど、何十年と、やめているので、自分の事さえ分から無い現状」

とあり、以前は共働きのご家庭だったことが分かります。

体調を崩し、ご主人の遺産や共働き時代の貯金を切り崩しながら生きるということは、当然節約をしなければならず、そのために水や電気やガスを極力使わないことを徹底していたのでしょう。

同様に、食費についても自分たちなりの節約を徹底しています。それは、せんべいやポテトチップスなどのお菓子を主食とすること。ひとつ198円、298円などの菓子を、ひとつでは腹持ちが悪いため複数購入し、毎日の食費はおおむね1000円強。

母が体調を崩したときの覚え書きには「食事が今までのは、どうしてもいけないので、毎日ご飯やおそばなど買ってきて食べている。(中略)毎日の私の食事代に、お金を使っているのが心配である。(P157)」とあります。

そのほかにも、体調が崩れたときに「初めてミカンを食べた」などの記載もあり、母にとってご飯、そば、野菜、果物などは、食べることで罪悪感を覚える贅沢品だったのではないかとうかがえます。

一方で、餓死に至るおよそ9ヶ月前の1995年6月24日に「山本山のお茶が切れたので安いものに変えたけれどどうだろうか」と心配している、月3850円の毎日新聞を30年以上購読していることから、もともとは裕福な暮らしをしていた可能性もおおいにありそうです。

 

母の「文句を受ける」について

覚え書きの中にはたびたび「○○という文句を受けたが」という表記が登場します。はじめ、息子から何か言われたとか、近所の人と喧嘩をしたとか、そういうことかと思っていたのですがどうも違うらしい。

例えばP54、1994年4月19日には

「夕方、窓を開けて、外の草花をながめていた所。(只、一筋の心在るのみ)と、言う、文句がうかんで来た。」

と。どうやら、母自身の心から湧き立つ、なにか啓示めいたもののよう。

一番印象的だったのが、池袋のアパートに越して1ヶ月後の1985年5月に受けたという「文句」について。

「(ここが最後、裸になる)と言う文句の感じを、昼間、起きているときに受けた」

以来、母は繰り返しこの文句について思いを巡らせています。そして池袋のアパートが自身の最期の場になることを察し、次第に受け入れているようにも見えます。

 

このほかにも、しばしば母が何かを察しているような描写が見られます。

 

色々と調べてみたら「困窮した生活の中でノイローゼになっていたのでは」という意見が見られ、確かにそれもありそうだとは思うのですが、何かを察した母がゆるやかにそれに近づくために日々のちょっとした選択を行い、その結果餓死に至ったのではないかと考えてしまいます。

もちろん、だからその生き方を正当化するということではなく、飽食の時代に同じ事件が二度と起こらないよう体制を整える必要があると思うけれど、なんというかな、この事件の行き着く先は行政うんぬん福祉うんぬん人のつながりうんぬんでは、ないような気がします。

 


追記

もっとも難解なところ。P150、1995年6月3日。原文ママ。

「子供は、この頃お腹が痛いといって、五、六回、お通じに行っているが、どうも(邪魔)からさせられている様で(中略)水道代はびっくりする程、上がっている(ジャマ)のせいだろう。

(中略)

(邪魔)を、こらせない様にしたから(イヤラシサ)は、取れたと思っていたところ、子供にその(邪魔)が(歯ぎしり)でしっかりと(イヤラシサ)を出させている。ことわった後、まもなくからで、今までは、子供はぜんぜんそんな事はなかったのに、その(歯ギシリ)が、ふ通でなく、特別ひどくて(イヤラ)しいのが強く本人にいくら言っても陰から(ジャマ)がさせているのでとまらない。歯は、上下ともすり切れてしまって、歯なしと同じ様に見える。もう三年になるのでひどい。」

 

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