日本の文豪の死因や遺言、最期の瞬間が軒並み印象的なのはなぜ

文豪と言えば自殺、と言えそうなくらい、文学者は誰もが生死にまつわる事象との関係性が非常に深く、不思議なもので一種の職業病のように扱われているように思います。

特に、日本の文豪は最期の瞬間が印象的な文豪は少なくありません。三島由紀夫氏などはその代表格ですが、他にも思いを馳せたくなるような文学者はたくさんいます。ということで、死因を知って「うわ、こわい……」「悲しい」「残酷すぎる」「なんでそんなことになってしまったんや」と感じた、衝撃的な死に方をまとめてみます。(※諸説あるケースも含まれます)

衝動性が垣間見える、川上眉山の例

川上眉山先生。代表作は『墨染桜』、『大盃』、『うらおもて』ほか。

1908年、文学に人生をささげてきた眉山氏でありましたが、自ら頸動脈を剃刀でかっさばいて亡くなりました。

しかし鬱などの傾向は比較的見られず、前日は息子が遊んでいる様子を穏やかに眺めていたりもしたそうです。つまるところ、前々から考えていた計画的なものではないようす。衝動的な行為だったのではないかとも考えられ、文学的な探究心との関連性も気になります。

 

今も理由が分からない、川端康成の例

日本人なら誰もが知っている、と言っていいであろうノーベル文学賞を受賞した、数少ない日本人のうちの一人である川端康成氏も、自害という衝撃の結末を迎えています。代表作は『みずうみ』、『伊豆の踊子』『雪国』など。

1972年、マンションの一室、布団の中でガス管をくわえて自殺しているところが見つかりました。

あまりにも突然すぎる最期であったことや遺書らしいものが見つかっていないことから、今でもさまざまな憶測が飛び交っています。

 

愛人との結びつきによる、有島武郎の例

代表作は『カインの末裔』『或る女』『惜しみなく愛は奪ふ』など。

1923年、人妻であった波多野秋子との恋愛関係が旦那にばれ、脅迫を受けたのち軽井沢の別荘にて二人で心中しました。死亡推定時からおよそ一ヶ月後に発見され、損傷していたことから遺書によってようやくこの二人であることが確認されました。

残された、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」という言葉からも強い決意と無念を感じます。

 

鉄道に横たえた、原民喜の例

原爆被害者として『原爆小景』などの作品を残した原民喜氏。代表作は『夏の花』『秋の日』など。

民喜氏は、もともと自殺を試みては失敗するという行為をくりかえしていましたが、1951年3月13日に、鉄道自殺を行います。国鉄中央線の吉祥寺駅から西荻窪駅のあいだの線路に横たえ、最期を迎えました。

事前にアルコールを大量に摂取していたとされていますが、事故ではなく、事前に新品整理がされていたことや遺書が用意されていました。

 

船から身を投げた、生田春月の例

詩集『霊魂の秋』や小説『相ひ寄る魂』を発表し、さらに翻訳の分野でも活躍していた作家である生田春月氏。

1930年、大阪発別府行きの船に乗り、走行中に船から身を投げました。

文学者として思うところがあったことが、瀬戸内海へ沈んでいく理由となったようです。

 

最期の一言が印象的な、島崎藤村の例

部落差別を扱った『破戒』や『春』などを残した、自然主義作家。世界的にも評価された文豪の最期は、病気が原因。脳卒中の発作によって床に伏し、その後亡くなりました。

病に倒れてからも「もう少し書きたい」と繰り返しており、最期は窓から吹き込む風に「涼しい風だね」と呟いて穏やかに迎えたそう。最後に選ばれた言葉が、偶然とはいえすごく印象的です。

ところで、自死を選ぶ文豪が多い中でその道を選ばなかった島崎氏ですが、かと言って健康な心身を常に保っていたタイプではありません。それどころか、かねてより「親譲りの憂鬱」に悩まされており、父親と長女が狂死しているなど特殊な環境に身を置いていたことも興味深いです。

 

太宰治との結びつきが強い、田中英光の例

太宰治氏との出会いによって、文壇にのぼった作家。『われは海の子』、『青春の河』など。

太宰氏は「君の小説を読んで、泣いた男がある。曾てなきことである」というメッセージを寄せているほどで、二人の師弟関係は非常に密なものだったことが分かります。

太宰氏が亡くなった1年後、田中氏は三鷹市の禅林寺にある太宰氏の墓の前で焼酎一升と睡眠薬三箱(アドルム300錠)を飲んだ上で、手首を切って自殺を図りました。

新潮社の編集者である野平健一さんが駆けつけ、すぐ病院に運ばれましたが助かることはなく、36歳という若さでこの世を去ってしまいました。

 

狂気の末にたどり着いた、牧野信一の例

『地球儀』、『父を売る子』、『西瓜喰ふ人』などを発表し、かねてから神経衰弱や不眠症をわずらいながらも、創作活動に勤しんでいた牧野氏。

でかける母に「いかないでくれ」とすがりついたり、首をつる真似事をしたりといった言動を繰り返したのち、とうとう真似事ではなく実際の行動に出たことによって、1936年39歳の若さで帰らぬ人となりました。

もともと、作品そのものに狂気性が潜んでいることが評価されていましたが、抱え込んでいた苦悩は想像を絶するものだったのかもしれません。

こうして改めて考えてみると、文学の世界ほど死の受け皿が大きい職業もないのではないかと思ってしまいますね。

 

【関連記事】

【ネタバレあり】島田雅彦「君が異端だった頃」の感想レビュー

清家雪子「月に吠えらんねえ」最終回直前ということで説明しようのないあらすじと魅力を語る

【ネタバレ・あらすじ含】又吉直樹「劇場」を読んだ。「火花」の感想とともに

常盤新平さんがエッセイでおすすめしていた本と映画を参考に知識を深めたい